高等専修学校で自分の道へ
誰に言われたからでもなく心の赴くままに 想像できない未来を楽しみたい
岳野 基道さん
料理人 懐石料理 「坊千代」 オーナーシェフ
町田調理師専門学校高等課程 2000年卒業
独創的な料理で、若くして自分の店を構えるに至った岳野さん。自分のやりたいことで早く一人前になるため、調理師免許を取得できる高等専修学校へ進学。卒業後はすぐに海外へ飛び、帰国して一から日本料理を学ぶなど、その遍歴からは一貫して独立した姿勢がうかがえる。その独特な軌跡を追った。
-やりたいことがあったから 迂回せず料理人の道へ-
ランチ・ディナー各営業一組限定の完全予約制で、人数や予算に応じて飲み物や食事の提供までをすべて一人で行う。その時々の雰囲気に合った音楽を流したりもする。
JR中央線の荻窪駅から、飲食店が並ぶ商店街通りを抜け、青梅街道を渡って住宅街に入り歩くと間もなく、一風変わった外観の「坊千代」のエントランスが現れる。少し怪しげで幻想的な雰囲気すら漂う。料理人の岳野基道さんがたった一人で経営する創作懐石料理「坊千代」。一日一組限定の完全予約制だ。
幼いころから工作が好きで、時間を見つけては自室で物を作っていた。玩具のプラモデルに飽きてしまい、歴史好きな性格が高じて、自ら設計図を引き、材木を組み立てて立派な城の模型を"築城"したこともある。
そんな生来の創作意欲を発揮していた岳野さんだったが、料理にはもともと興味があったわけではない。町田調理師専門学校に入学するまで、料理らしいことはまったくと言っていいほどしたことがなかった。
料理人になりたいと思ったきっかけは中学生の頃、料理好きな母親の影響だったという。出来合いの総菜が食卓に並んだことがないほど、家族のために毎日一生懸命楽しそうに手料理を作る。そんな母親の背中を見て、岳野さんは育った。
ところが進路を決めるときに、卒業と同時に調理師の資格が取れる町田調理師専門学校を志望したとき、当の母親からは「高校を出てからでいいのでは」と反対された。しかし、すでにやりたいことを決めていた岳野さんにとって、高校へ通う時間が無駄に思えた。
「普通は高校や大学に行ってやりたいことを見つけるんだと思うんですけど、その時点で僕にはやりたいことがあったので、早い方がいいなと」
入学してからは朝早く登校し、放課後も残って包丁の練習に励んだ。在籍中の三年間はほとんど遊びに出掛けた記憶がない。「とにかくちょっとでも上に行きたい」。その一心で放課後はさらに洋食レストランの厨房でアルバイト。卒業後にイタリアに行く資金を貯めるためでもあった。
卒業生の進路は日本で就職することが普通で、卒業してすぐに海外へ出るということは前代未聞だった。
イタリアを選んだ理由は、「当時の高校生くらいの感性では、日本料理というと先輩後輩の上下関係が怖そうだなと(笑)。それと日本料理といっても当時はあまりピンと来なかった。イタリアンだと、ピザとかパスタとか、華やかでおしゃれに思えたんです。それに日本人が作るイタリア料理ではなく、イタリア人がどういうものを食べているのかが知りたかった」
とはいえ学校やアルバイトでも、料理の基礎や上下関係など働くことについて教わることは多かった。
-本場イタリアでひとり学んだのは 本場の味と生きる力-
店内に設えてあるアンティークが、落ち着いた雰囲気を演出する。
イタリアでは安宿や下宿を転々としながら南部の田舎町や都市部などを渡り、さまざまなレストランを食べ歩いて、美味しいと思うその場で直談判して店の厨房で働かせてもらった。言葉は働きながら覚えた。
「イタリアで何を一番学んだかって、料理の技術うんぬんというより生きる力だったという気がします」
職場はどこも楽しく、イタリア人の同僚たちも陽気で明るかった。このまま居続けることもできたが、一方で、「日本人なんだから日本料理を作ってよ」と言われても作ることのできない自分がいた。
「当時の僕は日本料理について興味がなかったですし、日本のこともあまり知らなかった。でも向こうの人たちは自分の国や街を愛ていて、その違いを感じた時に、ああ、自分は日本人なのに何も知らないなと」。イタリアに渡って2年で帰国を決意した。
イタリアのイタリア料理は大体わかった。今度は日本のイタリア料理についても学びたいと、帰国してまずはイタリア料理店で本場鍛えた舌と腕と振るった。当時の日本では、京野菜など、日本の食材を使用したイタリアンが流行していた。それを目の当たりにした岳野さんは、もっと日本の食材や料理について詳しく知りたいと、懐石料理店に入って日本料理を一から学び直すことにした。
-日本の伝統料理を学び 和洋の経歴から公邸料理人に-
銀座の懐石料理店で働いていた岳野さんに転機が訪れる。フランス・ユネスコ大使の公邸料理人に選ばれ、パリへ渡ることになったのだ。
公邸料理人とは、各料理人が個人で外務省に登録しておき、外国に駐在する大使が登録者の中から海外に連れて行く自分のお抱え料理人を選ぶことができるという制度だ。大使にとっては岳野さんの和洋両方の経歴が魅力的に映ったのだろう。任期の2年間、大使の日常での食事や、公邸で主催されるパーティーなどで存分に腕を振るった。岳野さんにとってもパリの食材に触れながら一人で自由に作れることが魅力だった。
任期を終えて帰国。料理長として働きながらも、独立したいという思いが次第に強くなってきた。
「厨房にこもって仕事をしていると、それが作業になってしまったことがあったんです。あまり気持ちを込めて作れていないというか。誰が食べているのかもわからないし、ただ言われたことを淡々とこなしているだけで。お客さんはもっとそのときのために来ているし、その方たちのためにその時間を作りたいという思いがだんだん出て来たんです」
-計画はない どんな未来も想像できない瞬間を楽しみたい-
2010年に、イタリアンを活かしたオリジナルの料理を提供する「坊千代」をオープン。料理を魅惑的に演出する明治・大正期の珍しい食器やインテリアも1点ずつ自身で調達する。
来店客は本当にさまざまだ。結婚記念日の夫婦。女子会や接待。三世帯の子ども連れ。どんな客が来ても、その時々の雰囲気に合わせられる。仕事は、予約がどんな趣旨なのかを探ることから始まる。性別、人数や年齢層、問い合わせの時間帯も判断の材料だ。
岳野さんが印象に残った時間がある。「年配のご両親と二人のお子さん。"久々に会うので家族で食事でも"といった感じだったのですが、料理もとても喜んでいただいて。料理が終わる頃には僕もそこの家族に入り込んで、まるで自分のお父さんとお母さんが食べているような感じで、すごくあったかい雰囲気になって」
中学生のころに料理人になろうと思うきっかけになった、家族のために料理を作る母親の姿。どこの家庭にもあるありふれた光景。反対されたとはいえ、それが現在のスタイルにもつながる、岳野さんの料理の原風景なのかもしれない。
「振り返ってみると料理人になろう、といったときも反対されたし、イタリアに行くときにも、この店を始めるときも誰にも賛成されませんでした。でも、自分の選択は間違っていなかったということは自信になっています。やっぱり自分を信じてやってきてよかった」
岳野さんは計画をすぐ行動に移すタイプなのだろうか。「面白いことにはすぐに食いつく性格ではありますけど(笑)、常に計画があるわけではないです。計画は最初から全部見えているというか、いつも瞬間で思いついたことをやっているので。想像できる未来なんか面白くなくて、イタリアに行こうと思ったのもそう。想像できない未来を楽しみたいという思いがあるので」
焼き茄子と炙り虹鱒。夏らしさを感じる贅沢なひと品。下には岳野さんが川原で拾った石を敷いている。
マンゴー・パッションフルーツ・パインなどを使用した水羊羹。
豚ヒレ 夏野菜のソース 雑穀米。器も一点ずつ揃える。写真の器は伊万里焼。